[2020/01/01] – 新年のご挨拶&管理指導職員研修の様子

あけましておめでとうございます。

 昨年は、社会福祉法人こぶしの会第4次長期計画(前半期)の策定、法人40周年を祝う会など法人としての節となる年度でした。今年度も改訂した法人理念と長期計画の元、職員一同みなさまとともに共生の地域づくりにまい進したいと思います。今年は、理事長のあいさつ代わりに、管理・指導職員研修での講演を掲載してごあいさつに代えたいと思います。

本年も、みなさまのご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。

社会福祉法人こぶしの会

以上です。


以下、管理指導職員研修の様子です。

令和元年12月20日(金)法人研修室(柳田町)において令和1年度管理・指導職員研修会を開催しました。

研修会の様子

 この研修は、キャリアパス規程に基づく人事考課を実施するにあたってアンケートを基にした事前の意見交換のための研修です。努力する者が報われる職場へ、同一労働同一賃金のシステムをつくるために、まずは管理者として管理者同士が対話しながらキャリアパス規程の趣旨を深めるためです。また、第2講義として、藤田理事長の個人史をたどりながら、こぶしの会の歴史に重ね具体的な事実から人権と歴史を築いていく一人としての命の重みを考える機会とし。また、戦争を知らない世代ばかりで、また戦争の二文字しか知らない職員も、その悲惨さに衝撃を受けた様子でした。人類が経験した数々の戦争は一つひとつがこうした悲惨さを内容とし、人と人が共生することの意味を実感として感じる時間となりました。

 第1研修「キャリアパス規程を管理するための対話」は、研修目的の説明、規程の概要説明各管理者アンケートのポイント、各管理者の意見交換を行いました。

 全体として、まだまだ人事考課の趣旨の不統一や評価等のあいまいさに実行の格差があることを前提に、「①いままでの言葉や基準を設けず、経営者の一方的で不透明な人事考課をやめて、②事実上終身雇用、年功序列的な制度は、職員の流動化の激しくなってきた現状や大きく変わる社会変動や福祉事業制度改革の中で環境適応が難しくなっている現実を踏まえ、⓷職員のアンケートを基に作成した職務の標準化や評価の方法が現状あいまいなところも抱えつつ、新たな指摘を受けて修正しつつ(チーム評価等)④利用者のニーズに応えるための組織にするための人事考課であることを共通理解としていく」と整理し研修を終えました。

 第2研修「平和と人権の源~藤田理事長の戦前・戦中・戦後を聴く~」は、記事を参考に(下記)理事長が満洲から引き揚げてきた幼少の頃の経験と理事長の人生や弁護士を志した経緯に与えた影響、労組関係の仕事を引き受けてこられた経緯、司法修習生の時代からこぶしの会の作業所つくり運動に参加されたことにつながるお話をしていただきました。

 この後、参加者で忘年会へと移り、普段言う機会のない思いや横の交流、心に残る重い発言もいくつかあり、大変こころにのこる会となりました。


藤田理事長

①満洲国からの引き上げ体験

藤田勝春

●私は山海関で生まれた

 私は、昭和17年3月に旧満州国の山海関(しゃんはいかん)で生まれたと戸籍に記載されている。山海関とは、中国の歴代の漢民族の皇帝が、隣接する満州国の侵略に備え万里の長城を作り、その長城が澎湖湾(ほうこわん)に突き当たった、中国と満洲の国境である。父は三男で家を出なければならなかったため、母親と結婚後、新天地を求めて満洲国に渡った。そして満洲国境の検疫関係の役人となり、昭和17年に私が、19年に妹が生まれた。

 父の勤務地の満洲里(まんちゅうり)という所は、ロシアとの国境の街で、ホロンバイルの大草原があった。北京から北に2,300キロ、ハルピンから西へ935キロある奥地であり、そこはロシアのバイカル鉄道と結ばれていた。当時の満洲里の人口は、1万2,000人余で、日本人は、200名ちかく住んでいた。

●昭和20年8月9日国境を越えてソ連軍が

昭和20年8月9日早朝に、多数の飛行機の爆音で飛び起きた。ソ連軍が満洲に侵攻してきたのである。敗戦の6日前であった。戦車5,250台、飛行機5,741機、兵員175万人にも及び、満洲里の街は、数百台の戦車に包囲されていた。抵抗すれば皆殺しと警告を受け、日本の部落では、集団自決が多発したが、私の部落の年寄りは生きるだけ生きるようにと皆を説得した。

 父は、現地召集されていたため、ソ連軍の捕虜となりシベリヤに拘留された。母と私と妹もソ連軍の捕虜となった。日中は、無蓋の貨物列車に詰め込まれ、駅に着くと公民館、学校、倉庫など泊まれる場所がある所まで何キロも歩かされた。母は、妹をおんぶし、私の手を引いてただ歩いた。ソ連軍から出される食事は数日に一度のアワ、ヒエ、コーリャンのスープだけである。後は自分の持ち物を売って食料に換え、飢えをしのいだ。昭和20年12月24日に極寒の奉天(ほうてん)の郊外の草原で2歳の妹が栄養失調で死亡し、母は凍った草原に小さな穴を掘り、そこに埋葬した。

 当時、満洲に残った日本人は、引揚船が出るという葫蘆島(ころとう)に20万人位集まっていた。昭和20年から昭和21年にかけての冬は、零下30度にもなる極寒の地で、数万人が栄養失調になったり、病死、凍死した。

 その頃、満人が日本人の子供を欲しがっていた。日本人は頭が良いので使用人として使えるからという理由だった。自分が生きて帰れる保証がなく、せめて子供の命だけでも助かればと、子供を手放す親も少なくなかった。いわゆる満洲孤児である。

 昭和46年頃、日中国交回復になってからも満洲孤児の問題は取り残された。満洲孤児は、日本人として差別を受け、馬車馬のごとくこき使われた。みんな、望郷の念は強かった。しかし、マスコミは満洲孤児を教育して教師や医師に育てたとの美談は報道するが、孤児たちの受けた仕打ちは、日中友好のためと称して現在まで報道していない。私たち親子が生き延びられたのは、親から受け継いだ体力と気力、つまり生命力があったのであろう。

●父はシベリアに拘留されて死す

 私の父は、昭和20年8月6日に現地召集になり、一発の鉄砲も打たずソ連軍の捕虜になり、シベリアに抑留された。そして昭和22年2月22日にツンドラの捕虜収容所においてわずか33歳で病死した。自分の妻と二人の子がソ連軍の捕虜になり、日本まで生き延びて帰れたかも分からないまま、極寒のなか病死した。昭和22年の冬は特に寒波がひどく日本人の捕虜60万人のうち6万人が死亡したと言われている。そこを生き延びた人の多くは日本に帰還できている。

 後日、厚生省のソ連における死亡者の墓参団に参加しハバロフスクに行った。シベリア鉄道に乗り一昼夜、小さな村に着き、タイガのまばらな山林の奥に収容所があったとされる場所があり、日本人を埋葬したという場所には木の墓標が立っていた。遺族は線香をあげ冥福を祈ったが、なぜこのような場所にとの疑問が皆の胸をよぎった。

 私と母は、葫蘆島から引揚船に乗った。貨物船であった。引揚船については、誰が船を差し向けたのか、長年疑問を持っていた。しかし、NHKの報道番組でアメリカ軍が毛沢東軍と戦うため蒋介石軍を葫蘆島に送り、空いた貨物船で日本人を帰還させたことが解った。

●母と2人だけで帰国

 母と私は、昭和23年に佐世保港に上陸した。港には、ソ連兵より暴行され妊娠した女性の堕胎施設があり、国が強制的に堕胎手術をしていたことを、後で母から聞いた。そして、父の実家のある宇都宮市に帰還した。宇都宮市は、至る所に空襲の跡があったが、バラックが建ち並び活気を呈していた。宇都宮市清住にある父の実家は、幸いにも空襲にあわず、残っていた。

 私の母は、既に死亡したが、満洲の体験を話すことはなかった。私が聞いても話そうとしなかったのである。満州での夫の死と娘の死を含め、ソ連軍の捕虜生活、ソ連軍の暴行、略奪、無数の死と死骸などの極度を見たのであり、言葉がないのである。戦争体験を記録して後世にのこす運動に長年かかわってきたが、本当に地獄を見た人は表現する言葉がなく、思いだして記録するなどできない。その記憶が頭にシミのようにへばりつき、時々思いもかけない時にフラッシュバッグして脳裏によみがえる。平和の為に戦争の記憶を記録に残し、後世に伝えることが出来る人は、よほど精神力の強い人であろうと思っている。

当日の写真

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